幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース管理者殿
説明文に対する懐疑
3253諏訪神社(2)につての説明文
“明治中期(1887)頃の手彩色の写真。秋のくんちの踊り馬場から参道入り口方面を見た写真。三つの鳥居が重なって見える。明治中期の、諏訪神社参道の風景。”
と説明されていますが、参道入り口方面を見た写真は、
2873諏訪神社の鳥居(2)
“明治中期(1887)頃の手彩色の写真。秋のくんちの踊り馬場から参道入り口方面を見た写真。三つの鳥居が重なって見える。鳥居越しに、
です。3253諏訪神社(2)の説明が鳥居の説明になっており、誤りと思います。
同様に
3871諏訪神社(3)についての説明文
“明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。“との説明も
3797諏訪神社の大鳥居(5)
“明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の右側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。“と同文にて、3871諏訪神社(3)の説明が大鳥居の説明になっており誤りと思います。
御検討、訂正願います。
5088諏訪神社神馬(1)についての説明文
“昭和3年(1928)ころの手彩色の絵葉書。『長崎諏訪神社神馬』と題している。高さ1.8mの青銅馬は、明治3年(1870)に奉納され、中門の前に設置された。
昭和3年(1928)10月に、長崎公園口(諏訪公園口)に移された。その後の撮影、5090とほぼ同じもの。”
5090諏訪神社神馬(2)についての説明文
“昭和3年(1928)ころの手彩色の絵葉書。『長崎諏訪神社神馬』と題している。高さ1.8mの青銅馬は、明治3年(1870)に奉納され、中門の前に設置された。
昭和3年(1928)10月に、長崎公園口(諏訪公園口)に移された。その後の撮影、5088とほぼ同じもの”。
とありますが共に長崎公園口(諏訪公園口)に移される前の、長坂上の大門前、すなわち中門前での撮影(長崎公園口移設前の1928年以前)ではないでしょうか?
5091諏訪神社神馬(3)製作撮影時期についての説明文
―昭和3年(1928)ころの手彩色の絵葉書。『長崎諏訪神社神馬』と題している。高さ1.8mの青銅馬は、明治3年(1870)に奉納され、中門の前に設置された。
昭和3年(1928)10月に、長崎公園口(諏訪公園口)に移されたが、それ以降の撮影。―
とありますが、絵葉書の製作時期、題、撮影時期に疑いがあると考えます。
まず 私の所有する絵葉書1
1898年9月20日付けのオーストリア・ウイーン宛ての絵葉書1には貴データベース所蔵“5508諏訪神社の青銅馬(7)“が複写されています。
そこには青銅馬と(陶器製?の)灯篭@が写っています。
絵葉書2にて、石灯籠Aは明治31年3月(1898年)に献灯されたことが読み取れます。したがって灯籠@が青銅製馬とともにあったのは1898年までと推測されます。
絵葉書2
したがって
撮影時期は1898年以前の撮影であると判断されえます。
さらに長崎諏訪神社神馬ではなく長崎諏訪神社頭青銅製ノ馬と題されているのではないでしょうか?
また葉書の表を確認していただきたいのですが、はかきの通信欄が3分の1を占めていた場合。製作時期は1907年以降1918年の間と推定されます。2分の1なら1918年以降。『郵便はがき』と書かれていれば1933年以降の作製と判断されます。私個人所有の絵葉書3は、
3分の1です。
昭和3年(1928)ころの手彩色の絵葉書ではなく製作時期は1907年以降1918年の間と推定されます。以上御検討お願いいたします。
2008年3月21日