ここに紹介する書簡は英国太平洋艦隊所属のライター G ドッズ氏が両親に宛てた手紙です。
アメリカ人でない立場で連合軍側からの視点で被爆後半年の長崎を報告しています。

                                   1946年2月24日 Writer G. Dodds 氏が両親に宛てた書簡 

No. 94  24. 2. 46                    ライター G ドッズ 英国太平洋艦隊 駆逐艦海軍少佐付              
父上、母上
 今朝、私は原爆落下地点にいってきました。目の前には廃墟が広がり、どこが原爆落下地点かは不明です。しかし、およそ1,2マイル長崎港から離れた場所に
確かにあるのです。一方の長崎港は3方の丘で守られ、他方原爆は丘の外側に落ち、港はかろうじて原爆の炸裂から逃れています。

  爆心地は立ち入り禁止区域なので米軍トラック部隊の統率のもと行軍および公務として出かけました。まず港からくねくねと、一年前は幹線道路 であったのでしょうが今やでこぼこ道を進みました。 約一マイル来た所で最初の惨状を目にしました。初めは徐々にそしてその後は全くの廃墟でした。そこら じゅうの建物は多か れ少なかれそこ彼処が瓦礫化していました。そのなかで注目されたのは、高い煙突(サンセットタイル仕様)が異常な角度で曲がっいるものの爆風から倒れずに 立っていた。さらに行くと、工場があり、鉄筋の硬度な骨組みはねじれ、ひしゃげていた。しかし、不思議なことに下部のセメント塀はまだ建っていて、いくつ かの機械が中に残っていた。さらに、巨大なガスか油のタンクが崩れ落ちている。数マイルの間、道路に沿って景色はこれの繰り返しなのです。
  ついに目指していた丘に建つ破壊された建物を見ました。その道はやはりでこぼこ道で曲がりくねって急勾配だった。やっと登りつめ、そこに一部破壊されたカトリック 教会があった。今までに見たすべての物の中でこの光景は決して忘れてはいけない物。美しい教会だったに違いない、今だってそうだ。ほぼ地面に倒れかけ、あ あ言葉では伝えられない、写真か何かでないと。正面玄関はあるけれども前に傾く。壁の一面は一部残っているが、残りは中央に向かってすべて倒壊。巨大な石 のドームは、たぶん教会の屋根の中央部分であったのでしょうが、瓦礫の中央に落ち、一塊となり無傷で残っている。そばに教会の鐘があった。鐘は少々かす り傷がついていたがほぼ無傷。米軍が鐘を吊り上げようとしているところのようだった。美しい鐘、数回敲いてみてちゃんと音がなるとわかった。 壁のそと 側に白い石像が全く無傷で立っていた。 朝の光線のかげんでそう見えたのかもしれないが、瓦礫に囲まれる中でなんとも神秘的な光景であった。 ああそうなの だ、決して忘れてはいけないことなのだ 。単に激しい爆風が襲っただけでありようもなく斜めに建ってれるのは不思議に思える。思うに、柱上部の部分の一つは空中に持ち上げられ、別の場所に落ちてきたようだ。 他ならず際立った光景だ。
  この丘からあたりをよく見渡せる、周辺は全壊し平坦になってしまっている。この丘に建つ教会の名は、浦上ローマカトリック教会。

  当初流言がありました。原爆の破壊によって土地には何も育たない。 しかしたくさんの成長をみることができます。 小さな畑が日本人によって耕され作物が 生育しています。爆発前から立っていた木々は爆発後もまだ立ってはいますが完全に枯れて見えます。 樹皮と枝は引き裂かれ葉は落ちてしまっています。
 1945 年8月9日 原爆が落とされてから数ヶ月がち、以来、日々すべては同じように過ぎてきた。 本当に静かなのです、誰が見ても平和だと錯覚してしまう。 活 動する者はなく11月11日戦没者追悼の日に2分間の黙祷をささげる感覚と同じです。同じ感覚なのだ。完全な静寂が一帯を支配しています。
 
 実際、厳密にいうと被害は東京や横浜よりひどくないのかもしれない。しかし、たった一個の小さな爆弾がすべての被害をもたらした事実に心が苦しくなる。誰しも目の前に広がる光景に心が痛むでしょう。
 長崎に来たとき受けた印象はこれなのです。言うまでもありませんが、ここの日本人は占領軍に対して少し敵意がある、それは原爆後で不思議ではありません。
 
 日本での約3ヶ月たった現在の希望は、いつか将来長崎の街並を見るのが本当に楽しいこととなることです。