長崎と米国との関係は、日本と米国との関係に集約できない特殊性を持っている。なぜなら、長崎には忘れることの出来ない事情がある。米国によってもたらされたあの原爆である。 その原爆投下の日、1945年8月9日から、1879年6月22日に時間を戻せば、 同じ長崎には、阿鼻叫喚の地獄にかわって、前米国大統領グラントを迎えた歓喜があった。植樹に際してグラントは記した。 「双樹と日本の将来が成長繁栄し長寿悠久であることを願う」と。 しかし、2本の木の内1本は枯れ、残った1本の手植え榕樹も 1943年3月21日伐り倒され野天に曝された。 「はかなきメリケンの名残を踏み潰せと長崎市翼壮は、21日市招魂祭の終了を待って午後一時諏訪神苑丸馬場の元米大統領グランド手植えの榕樹を根こそぎぶっ倒し、さらに鋸で割って残骸を野天に曝した。」4) 行為は野蛮である。メリケン憎しという感情と、木を切り倒すという行動は冷静に考えれば一致しない。倒すべきは、国家、兵士としてのメリケンであって故人 となったメリケンが植えた木ではない。木を倒すことは、敵を倒すということにあらず、これによって敵が損害をこうむるわけもなく、結局、行為者の自己満足 と慰めでしかない。 長崎での植樹の後、グラント将軍夫妻は上京、東京芝増上寺ではヒマヤラスギ、上野公園8月25日にはローソン・ヒノキとタイサンボクを植樹する。上野公園では植樹後半世紀を経て1930(昭和5)年5月30日グラント将軍記念碑除幕式が執り行われる。肖像の下部には「平和を我等に」 Let us have peace と記されている。 彼の地、東京にしても第二次大戦中、米軍の空襲によって焼夷弾に焼かれた。帝都東京は計100回あまりの空襲を受けた。特に、1945年3月10日には、死者8万余、被災者100万余の犠牲をしいられている。其の中にあってもこれら3木は今日に生き延びているのだ。 戦後まもなく諏訪公園に倒された榕樹のあとに再度植樹がなされた。当時の占領軍米国役人によって。1) グラント将軍記念植樹絵葉書 現在の諏訪公園グラント将軍植樹記念碑 2009年2月7日 まつおかひろちか |
1)幕末・明治・大正・昭和 長崎居留地の西洋人 pp214-217 2002年 レイン・アーンズ著 長崎文献社 2)明治維新以後の長崎 p578 1925年 長崎市小学校職員会 重誠舎 3)明治維新以後の長崎 p590 1925年 長崎市小学校職員会 重誠舎 4)毎日新聞、昭和18年3月23日付長崎版 |